生きたいので頑張ります。
自分の可能性について。自分自身について、自分がこれからあと60年は生きていかなきゃいけないことについて、マジで考え始めた。相手は変わらない、変えられるのは自分だけ。そして自分の素質は変わらなくて、努力によって与えられた場所で咲けるように変わるか、環境ごと変えてしまうか、どちらかだ。
環境を変える、というのは、難しい。環境は生まれながらある程度決まるものだし、そこから変えるにしても、いろいろ問題があったりするし。それなら、努力して自分を環境に合わせた方が、ローリスクなんだよね。すぐに出来て、リスクも少ない。
だからわたしはずっと努力して、なんとか社会一般の人々と足並みを揃えてやってきたつもりではいた。
でもなんか、結果としては、付いていくのにやっと、という感じで、周りからしたらただの飲み込みの遅い人間にしか映らないんだろうな。わたしがこんなに骨を折って努力している意味とは、果たして、何なのだろうか。
自分が考えていることが、どこまでが甘えで、どこまでが世間知らずで、どこまでがゆとりで、どこまでが怠けなのか、分かんないな。それと、「頑張りすぎない」は、どう両立したらいいんだろう。頑張りすぎたら死ぬんでしょうけど、程よく頑張ってそれで幸せにいくんだったら、そもそも頑張りすぎなくないですか? 意味もなく頑張りすぎてるわけじゃないじゃないですか。生きていたいからこんなことになってるんですけど。はーあ。
仕事、サービス業なのですが、大卒のひとより高卒のひとの方が、素直で飲み込み早くてすぐ出来るようになるよね、みたいな話を、結構な頻度で耳にする。大卒はプライドばっかり高くてだめらしい。まぁ、本人の目の前でそんな話をする人たちではないので、わたしのことを言ってたわけではないのだと思うけど、まぁでもわたしのことも緩やかに含んでいたんだろうな。なんか、切なくなってしまう。プライド? 多分、当人はそんなつもりないんだよね。普通に頑張ってるつもりで、でも普通には映らないんだろうな。適材適所で生きれたらいいのにね。
で、どうしましょうね、人生。このまま60年は嫌だな。わたしじゃないひとの方が、もっと軽々やってのけるというのなら、その人がやればいいんじゃない? わたしがわざわざ苦しい努力をしたって、結局ただの非効率なのだとしたら、ほんともう、わたしじゃない方がわたしのためにも良いのですけど。なんて、言ったら甘えでゆとりなので、言わないけどね。言わないで、ただ努力をしています。努力…。
難しい。穏やかに生きたい。心がざわざわする中であと何十年も生きるのは辛いな。みんなどうやって生きてるんだろう。ただ、道の続くままに進んでいては、立ち行かないことばかりじゃないですか? 多分、どこかで、道を外れないといけないんだよな。怖くて、ずっとみんなと一緒に歩いてきたけれど、なんかもう無理だなって思った。疲れた…。
無理だなって、ちょっと割り切ってみたら、ちょっと元気になった。無理なので、このまま60年生きる、という考え方から、まずは離れてみよう。ひととは違う道を選ぶことになるだろうな、わたしは。そこから先は、後悔しても自己責任なんだよ。怖いな。人生って怖いんだね。頑張ります。生きたいから頑張るんだよ。生きたいので頑張ります。
はなまるじゃなくても。
われがたれでもゆるき明け方。
エンプティー、がらん。
週末のない国。
いつくしみ深き、密閉部落。
みづゐろのさくら。
(赦されている。)
かかり真魚さんの おそ松さん短歌・俳句本、「きみは暴君」買いました。もう、もう、軽く抜粋しただけでこの威力ですよ!!怖すぎます!!!分かりますか!!!これが三十一文字になると、こんなもんじゃないんですよ!!!!!ああ〜〜!!!!!
胸を鷲掴みにされるというのは、こういうことを言うんだな…!
まだ最初の方しか読んでないけど、最高にしんどいので読み進められない……しんどい……(これが 萌え か……)
真魚さんの短歌や俳句、もともと大好きなのですが、言葉が時々難しいことがあって、時々つまづいていたんだけど、おそ松さん短歌では原作がデフォルメされたギャグ系アニメだからか、言葉もすごく易しい感じになるんですよ。易しいのに、ひとを殺すんです。笑っていた数秒後には血みどろですよ。えっ…?最高じゃないですか…?ストライクすぎて死んでしまう……はぁぁ……!
やかましくて、騒々しくて、馬鹿で愚かで、頭がイカれてて、弱くて、寂しくてでもそれを笑って、笑って、生きてても生きてなくてもどうせ誰も気付かないのに、それでもセラヴィ、我々ははなまるじゃなくてもはなまるなんですよ…!!!これを…泣かずしてどうやっていられるんですか……あぁ…好きです………。
わたしはじわじわと絞め殺すような言葉を使ってきたタイプなので、鈍器で頭を打ってくるような、ナイフで心臓を突き刺すような、一発で致命傷を負わせる言葉を使える方々にとても憧れるし、わくわくさせて頂いております。素晴らしい…!
真魚さんの作品、今通販されてるようなので、売り切れないうちにぜひ。真魚さん監修の庫内灯でも素晴らしい作品が読めます。こちらは文学フリマで頒布されるようなので、気になった方は検索じゃ!!行かれる方はぜひ!!!
大した才能も無いのに日常を犠牲にしてはいけない。
5月ティアと文フリ両方出る予定です。まだどっちも申し込みしてないけど。週末にはしようかな。
頒布物、迷いますね。正直、自家製本はわたしの負担が大きくて…←、一冊作るぐらいなら全然良いのですが、二つイベント出るとなるとそこそこ作らないとだし。花園はページ数大変だから別のを作ろうかとも思ったけど、別のを作ったら新刊ということになり、やっぱりたくさん部数が必要になってしまうという…。うーん……。まぁ今から作ればいけるのか。というか、がんばるしかないか。がんばるか……。それにしても、花園よりは新刊の方がいいのかもな。ページ数半分くらいにして。そうするとあんま収録できないのが気掛かりなんだけど。個人的には、余白とかガン無視した文字ぎっしりのものが好きで、読むところが少ししかないとがっかりするタイプなんだけど←、でも詩集ってある程度行間を読むようなところもあるんだよね。とりあえずやってみよう。
星ビスは、自家製本のつもりだったけど、そういうのを考えると印刷所もアリかなぁと思ってます。一度作ってしまえば当分再生産しなくていいなんて気が楽で良いじゃないか。その代わり、一発勝負だけどな。上手く印刷されなくても刷ったものは頒布することになる。覚悟を決めなきゃ…。
今回、星ビスは出したくて。でも、自家製本ツイートで繋がってくれた方もたくさんいて、そういう方がもし遊びに来てくれた場合、やっぱ自家製本も用意しておきたいのです。うーん、時間との戦いだ。でも日常を犠牲にしても仕方ないので、無理はしないぞ。片方しかでなかったらごめんね。片方だった場合は自家製本が出ると思います。その場合星ビスは後日通販にする。
仕事や家庭を犠牲にしたり、友人関係を希薄にしてまで創作をするっていうのはそれはそれでどうかと思うよね。すっごい創作だったらともかく。大した才能も無いのに。ほんとにな。分かる。
わたしは一つに集中するとそれしか見えなくなる節があるので、創作じゃないこともちゃんと大事にしたいと思います。
ネガティヴな感情
RTは控えてね!というブログにしました( ´ ▽ ` )ノ けっこう何でも書いちゃおうと思うので、思わぬところまで広がっちゃうのを防ぐために。よろしくお願いしますー。
ネガティヴな感情っていうのは、一体何なんでしょうかね。昔はそういうのひっきりなしに感じては軽率に言葉にしていたけど、大人になるにつれて、あんまり言わないようになる。ツイッターも、始めたころはすごい鬱々なことも書いてたけど、今はほぼ創作のことしか言わないようになった。まぁツイッターは特に、自虐へのバッシング強いもんね。自分に自信がないよ〜みたいな発言は、創作してそれを頒布する人間が口にしてはいけないことだ、という。まぁ分かるよ。せっかく好きになってやったというのに死にたがられても困るよな。ある種裏切りだよな。それはよく分かる。分かるんだけど、じゃあこの気持ちはどうすんの? 無かったことにして笑えばいいの?って、知らねぇよって言われそうだけどちょっと思ってしまう。ネガティヴな感情は自分には必要がないから、他人のそういう感情も要らないと思います、っていうのはそれはそれで暴力だろ。
最終的には各々の問題なんです。分かってる。あなたが寂しいのはあなたの問題なんですよ。だから他の誰かに何かを期待しても、だめなんです。そんなのは分かってるんだけど。
暗い気持ちって何なんだろうね? というのを、ずっと考えてる。そういう気持ちが自分の中に存在することについて、どう解釈したらいいんだろうね?
何もかも嫌になってアカウント消したくなる衝動、一種の自傷行為だよね。気持ちいいよな自傷行為って。分かる。でもやっぱ後がない自傷行為は後々しんどくなるので苦しくても楽な方は選ばない方がいいよ。近道しようとすると余計に面倒なことになるからね。
でも、結局コンテンツなんだよな。突然アカウント消したって、面白い読み物がなくなっちゃったなーぐらいなんだよってフォロワさんが言ってた。死んでも意味ないよね。
書きたいから書くのか、読まれたいから書くのか
書きたいから書いているのか、読まれたいから書いているのか。という話があったので、考えた。わたしは、創作、特に星ビスに関しては、今以上に感想が欲しいとか、創作トークで盛り上がりたいとかは思っていない。今現在、いくらかの方がわたしの創作の世界観を知って頂けていることで十分満たされている。だから、書きたいから書いていますーーと言い切れてもしまえる。だけど、誰からも読まれなくなったらどうかな。それはちょっと寂しいよね。やめちゃうだろうか。微妙だな。誰も読まなくても、未来のわたしは今日のわたしが書いたものを読むだろうからな。今のわたしも、過去のわたしが書いたものを結構読むし、それで意外と勇気をもらったりもするし…。そうすると書きたいから書いてるのかな、やっぱり。
ただ、こういうブログみたいな文章は、読まれたいから書いてる。ツイッターだと、こういうこと書いてもTLから見えなくなれば無かったものと同じで、それはちょっと虚しいよな、と思ってブログを開いた。あと、ツイッター、後ろ向きなことは書いても何の反応も無いし、逆に反応あっても困るし(このへんの気持ちは伝わる前提で書いてます)。明るい話をすればふぁぼが貰えるけど、それはそれで悲しいときもある。ツイッターは意外とスキルが要る。
読まれたいから書いている。日記じゃ絶対こんなの書かないし。というか日記は昔から絶対書けないひとだった。日記として見る自分はすごく気持ち悪いので。(創作としての絵だったら平気なんだけど)。手書き日記は苦しいけど、ブログでポチッと発信するのは平気で、インターネットだから書けたものはたくさんある。不思議だね。
だから、書きたいからと読まれたいからは、両方あるんだよな。創作に限っていうなら、書きたいから、になるのかな。
感想について。「作者なら誰でも感想貰ってうれしいはず」論は、ちょっと賛同しかねる派。ほんとに好きだから好きですっていうのはもちろんハイパーうれしいけど。感想、別に脅迫観念に駆られて書くようなものじゃないと思う。書くほどじゃないんだったら書かなくていい。別にそんなに好きってわけじゃないけど見れなくなったら悲しい、ぐらいの気持ちだって、良くあるじゃん。そこをそれほど否定はできないな、と思う。
わたしは物書きさんとの繋がりで、SNSで疲れみたいなのは経験したことないんだよね。ありがたいことに。というか物書きさんは、こちらから一方的に好きな方ばかりかもしれない。相互してもらってても、わたしのほうがあなたを好きですっ(愛)。だからあんまり相互の交流がない。その距離感がちょうどいいのかもしれない。
見てる限りでは、絵描きさんのほうがそういうの大変そう。イラスト素敵ですねー合戦とか。でもそういうのがマナーなんですよね。相互になったら絵に反応する、リプでほめる、拡散するがマスト、みたいな。そういうの複雑に感じるので、SNSで絵を書き続けてる絵描きさんみんなすごいと思う。
やっぱり、自分が好きだなって思えるひとをフォローする、っていうのは大事だよね。自分を好きって言ってくれるひとを好きになるんじゃなくて。自分からの愛は強いよ。だから、繋がり系のタグはあんまりしなくなりました。こちらから好きですってフォローしに行く方がわたしは好き。
はてなブログ5周年ありがとうキャンペーン
5年後の自分へ。
今まで辛いこと、退屈なこと、よく我慢しました。
そろそろ転職しても十分だと思います。
やりたいことをやりましょう。
たった一度の人生です。
おわり。